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日本図書設計家協会 The Society of Publishing Arts
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キリシタン版の草書体、朝鮮活字の楷書体。
ボドニーのモダンローマン体。
明朝活字の原形はどこにあるのか?
歴史の中の「文字のかたち」を探して…………

活字遊行2 キリシタン版とヴァリニャーノの希望

 直木賞作家山本兼一氏の小説『ジパング島発見記』の中の一篇『ヴァリニャーノの思惑』を読みました。アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノは1539年ナポリ王国の名門貴族の子として生まれた。ヴェネツィアのパドヴァ大学で教会法を学んだ。1579年7月イエズス会の巡察使として島原の口之津に上陸しました。各地を巡察してまわり、信長とも会見しました。大友宗麟、有馬晴信、大村純忠ら九州のキリシタン大名に接触し関係を密にしました。
 1582年1月九州諸候から派遣された、正使伊東マンショ、千々石ミゲル、副使中浦ジュリアン、原マルチノ。随行ジョルジ・デ・ロヨラ、コンスタンチノ・ドラード(日本人)、通訳ヂオゴ・デ・メスキータ神父、引率はヴァリニャーノ(印度のゴアでヌニョ・ロドリゲスと交替)達は長崎を出発した。
 天正遣欧少年使節一行はマカオ、マラッカ、セイロン島と少年達は病苦に喘ぎながらゴアに辿り着いた。
 1584年2月使節一行はゴアを出発。ポルトガル、スペイン経てイタリアのローマに着きました。熱狂的な歓迎を受け、1年を経てリスボンを出航したのが1586年の事でした。ゴアに帰ってきましたが、それから日本に帰着するまで数年かかり、ヴァリニャーノ達が長崎に着いたのが1590年7月でした。
 この小説にはヴァリニャーノ若き日のイタリアでの刃傷事件の事、イエズス会に入会したいきさつは書かれていますが、長崎に帰着した時、印刷機材一式を持ち帰った事は書かれていませんでした。

 この当時西日本を主として、キリシタン信者数は数十万ともいわれていました。ヴァリニャーノは伝道活動だけでなく医療、教育事業にも力を注いだ。これらの文書伝道、信者および宣教師教育のため、活版術の必要を切実に感じていた。ヴァリニャーノの命を受けた、ドラードとロヨラとアゴスティニョ達はリスボンで活字の原字造り、活版印刷技術一般を学んだ。印刷技術を習得したドラード達と少年使節一行は印刷機材一式を船に積み込みリスボンをあとにしモザンビクを経てゴアに着いた。
 ドラードや印刷術を習得したイタリア人ジョアン・バプチスタ・ペスチ達はマカオで風待ちの日々を利用してリスボンで積み込んだ印刷機を使ってローマ字書体のラテン語の教科書等の印刷を行った。1589年9月マカオで過労ためかロヨラが、天に召されてしまった。

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どちりいな・きりしたん(複製)
モリサワ・コレクション蔵


 一行の持ち帰った印刷機材は印刷機、母型、鋳型、活字(三種のローマン体)インキ、紙などの必要資材であった。のちに国内で造られた活字と合わせると欧文ローマン体は七種(48・22・18・16・11・10ポイント相当)、イタリック体は三種(20・18・11ポイント相当)で18・11の母型は日本で製作された。この欧文活字以外に書標、装飾小模様、見出し文字がありました。
 島原半島の先端にある加津佐に陸揚げされた印刷機材はコレジオに置かれ、翌1591年にローマ字で組まれた『サントスの御作業のうち抜書』2巻1册が初めて印刷された。
 ヴァリニャーノは女の人やこどもにはやさしいカタカナとよく使う文字が漢字になっている本が覚えるには望ましいと指示をだしている。
 国字づくりのはじめはカタカナと楷書体の漢字が試みられましたが、木活字だった為に切れが悪く、途中でやめてしまいました。活字鋳造は大変な作業で種字作りから始まり、母型に地金を注ぎ込む作業は高度な技術が必要とされた。ペデロ・ちくあんやドラード達が選んだ書体は、当時町衆など一般に日常的に最も普及していた文字を採用した。つまり布教への効率が高い文字、それが書写体の草書体漢字、平仮名交じり連綿体でした。
 第一種は草書体漢字交じり平仮名(大型)、第二種は草書体漢字交じり平仮名(小型)でした。
 第一種、第二種とも同一の書風で、またニ字、三字の連続文字を多く用いて筆写本の趣きを出すよう工夫している。なお第一種は『祈祷文』『ばうちずもの授けやう』『どちりいな・きりしたん』に用いられただけで、以後の国字本はすべて第二種が使用されている。
 今の私達には読みづらい草書体ですが、当時は最も普及していたと言われる草体。室町期まで強い固定観念が存在し、分野による文字の使い分けがあり、木版印刷本に草体が使用される事は皆無でした。国の人々が常用していた書写体を採用したことはドラード達にへんな固定観念がうすかったからかも知れません。
 時代の風、時代の要望を受け止めて何事にもとらわれず対処していかなければならない事を教えてくれます。国字本の装訂は和紙に片面印刷、袋綴装、四針眼訂法等で和風に仕上げてあります。
 このあと、草書体漢字交じり平仮名は嵯峨本に受け継がれていきます。

 ヴァリニャーノは1592年10月マカオに着いた。すでに中国人二名をイエズス会に迎え入れ、この地に印刷所を設置していた。2年間、日本と同じ方針に基づいて支那での布教に力を傾けた。1597年4月ゴアを出発してマラッカ、マカオを経て1598年8月3回目の日本上陸を果たした。1603年1月まで約四年半にわたり主に長崎に駐留した。この間、国字本『ぎやどべかるど』『おらしよの翻訳』『倭漢朗詠集』ローマ字本『ドチリナ・キリシタン』などの出版している。ヴァリニャーノは1606年1月マカオで逝去。66歳でした。

 1611年に長崎の後藤登明宗印活版所で『ひですの経』(国字本)を印刷したのを最後にキリシタン版の開版は絶えます。この間印刷地は、加津佐、天草、の各学林、京都などで、開版されたものは三十点、他。
 ドラードとマルチノ達は1614年11月国外に脱出。この時印刷機材は持ち出されたものと思われます。
 マカオで司祭になったドラードは1620年7月昇天した。死因は鉛中毒だったらしい。53歳でした。

参考文献
『日本巡察記』ヴァリニャーノ 松田毅一他訳
『きりしたん版について』大河内貞郎
『日本印刷文化史』中根勝
『活版印刷人ドラードの生涯』青山敦夫